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脳はどうやって大きくなったか

ヒトとチンパンジーの遺伝子は95%ほど一致する。ところが脳の容積比は3対1と非常に大きい。ヒトだけが持つ5%の遺伝子のうちのどれかが人間の脳の大きさに影響を与えているはずである。この影響はどのようなものなのだろうか。これを知るためには、遺伝子の働きについて理解する必要がある。

生物学のセントラルドグマによれば、DNAはメッセンジャーRNAに転写され、メッセンジャーRNA酵素に翻訳される。酵素が集まって細胞が作られ、細胞が集まって身体が出来る。最も普通の遺伝子は、1種類の酵素を作るのに必要なDNAの連なりで、シストロンと呼ばれる。ただし、すべての遺伝子が酵素を符号化しているわけではない。オペロンという遺伝子はシストロンが発現するかどうか(つまり、酵素として翻訳されるのか無視されるのか)や、翻訳される場合にどれだけの量の酵素を生産するかを定めている。もちろん、オペロンが別のオペロンの発現を制御することもある。このようにして、プログラミング言語のサブルーチンのような階層構造が生まれる。

遺伝子がシストロンとオペロンに大別されるのだとすれば、ヒトとサルの脳容積の違いを説明する遺伝子もこれらのうちのどれかのカテゴリに分類できるはずである。もちろん、複数の遺伝子が関与しているだろうからそう簡単に答えられるものではない。それにもかかわらず、最新の研究成果ではオペロン説を支持する証拠が得られている。

この研究では、ヒトとサルの共通の先祖が持っていた遺伝子のうち、進化の過程で分化したものをみつけた。DNAの塩基配列のパターンもその機能も似通っているが、突然変異によって一部の塩基が{追加/削除/置換}されて変化している。この結果、機能にも若干の差異が生まれている。さらなる解析で、この遺伝子がオペロンであり、神経幹細胞の遺伝子の発現を制御することがわかった。

さて、研究者たちはこの遺伝子のヒトバージョンとサルバージョンを、遺伝子工学によってマウスの遺伝子に移植した。マウスは胚として子宮の中で育てられた。ただし、倫理的な問題(ヒトの脳の遺伝子を持つマウスを作っていいの?)から、子マウスは誕生する前に処分された。

マウスの胚は、ヒトバージョンの遺伝子を持つ方とサルバージョンの遺伝子を持つ方で劇的な差異を示した。ヒトバージョンの胚は、脳の容積が12%大きかったのである。12%は300%と比べると小さい。しかし、重要なのはたったひとつの遺伝子の違いだけで12%もの増大がもたらされたということである。遺伝子はオペロンであるため、それ自体は酵素に翻訳されない。つまり、新しい種類の神経細胞が出来たわけではない。むしろ、既存の神経細胞の生産数が増加したと考えられる。この結果は、ヒト進化における脳容積の増大が、主にオペロン型遺伝子の突然変異によるものであることを示唆している。

ヒトの知能の高さは、脳が大きいこと以外にも原因がある。実際、ヒトとチンパンジーでは脳に存在する酵素の種類に違いがある。従って、神経細胞の機能が異なることは大いに考えられる。結局のところ、神経細胞の高性能化と生産数の変化の両方が相乗効果を生んでいるという解釈が正しいだろう。

しかし、たった1個の遺伝子の違いが脳容積を劇的に変化させることは、脳の機能について楽観的な考えを生む。それは、遺伝子は神経細胞一個の設計については詳細に考えているが、複数の神経細胞が互いに協力して作る機能モジュールの設計は案外適当にやっているということである。何故なら、遺伝子が1個変化するだけで神経細胞の数が劇的に変化するのならば、それらが全体としてどう振る舞うべきかを考える暇など無いからである。

ところで、SF作家デイビッド・ブリンによる知性化シリーズでは、遺伝子工学によってイルカとチンパンジーの知能を人間並みにし、人類が宇宙に進出する際にも共に宇宙船に乗り組んでいる。イルカは空間感覚に優れるためにパイロットとして重宝される。チンパンジーは偏執狂で、ひとつのことに極端に集中するため、科学者として優秀である。それぞれの種族の個性が役に立っている様子が描かれて面白い。

この投稿で紹介した研究結果で、知性化シリーズは現実味を増す。もともと高度な知能を持つ高等動物(カラス、イルカ、チンプ、ゴリラなど)にヒトの遺伝子をいくらか移植するだけで知能が急に上昇するという話は、研究成果をみるかぎり十分考えられる。実際、倫理的な問題が無ければ明日にでも実現する可能性がある。