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マイクロワールド

人工知能の歴史の初期には、実世界と比べて単純化された仮想的な世界(マイクロワールド)での問題解決の研究が行われた。最も有名なのはミンスキーの学生たちが行った「積み木の世界」の研究だろう。この世界では、積み木とそれを操作する腕が存在し、エージェントは腕を使って積み木を動かし、様々な課題を解く。積み木の世界はコンピュータの中だけでなく、現実の積み木とロボットをつかったものも作られた。積み木の世界の集大成はウィノグラードが開発したSHRDLUで、これは自然言語による命令や質問を理解して積み木の世界で適切に振る舞うことができた。SHRDLUは言葉の意味を手続きに関連付けて理解し、「大きな積み木の上にある赤い積み木をその手前にある青い立方体の上に置け」などという命令を文脈を考慮した上で実行することが出来た。

マイクロワールドの研究はもっと見直されるべきだと思う。自動運転技術や、画像認識、機械翻訳、ファクトイド質問応答などでビッグデータ主導の最近のアプローチは大成功を収めているが、マイクロワールドの中での知能についての研究はこれと相補的だと思う。

まず、マイクロワールドの概念について、僕が考えていることを説明する。マイクロワールドは私達が生きている世界の縮小されたモデルだと考える。そこには時間と空間と物体が存在し、物体の振る舞いを支配する物理法則が定められている。さらに、自律的に動き世界に影響を与えることが出来る物体として、エージェントが存在する。マイクロワールドは現実世界のモデルではあるが、様々な単純化が行われる。例えば、時間・空間が有限であったり離散的であったりしてもよい。水や空気のような流体が存在せず、物体はすべて剛体として振舞っても良い。摩擦や重力などの物理法則は、近似的であってもよい。

手書き数字認識のデータセットであるMNISTデータを識別するシステムはマイクロワールドではない。単なる識別器は自律的に振る舞うエージェントとしては認められない。マイクロワールドにおけるエージェントはただ知覚システムを持つだけでなく、まわりの環境に作用する効果器を備えなければならない。囲碁やチェスなどのゲームの世界もここで述べる意味でのマイクロワールドではない。勝ち負けを競うゲームは私達が生きる現実世界のモデルとしては不適切だと考える。

マイクロワールドは現実世界と「類似した」時間と空間を持たなければならないと思う。積み木の世界にはこれがあった。物体は空間を「移動する」ことが出来たし、物体を「持ち上げて」、他の物体の上に「落とす」ことが出来た。「」でくくった単語は、実世界と積み木の世界で似通っていることは誰もが認めるだろう。

マイクロワールドが現実世界と類似していなければならない理由は、生物が進化の結果獲得した知能が、この世界の有り様に強く依存すると考えられるからだ。特に、物理的な世界において運動を行う能力は、運動そのものだけでなく、様々な認知能力に関わると考えられる。ジョージレイコフとマークジョンソンが指摘したのは、人間が抽象的なことについて考えるとき物理世界における運動を起源とするメタファーを多用することである。「株価が下落する」、「2人の関係は大きな壁に直面した」などはその例で、このような例は日常的、専門的問わず、あらゆる思考に普遍的にみられるといってもよい。

現実世界そのものを対象にして、ロボットを作ればいいじゃないかという声が聞こえそうだ。しかし、現実世界そのものを単純化しないで扱うことは、複雑さを増やすだけだと思う。ロボットを使う場合、努力の大部分がささいな問題を解くために使われるという場合が多い。コップを持ちあげたいとする。このとき、膨大な処理が行われる。ロボットはカメラの映像からコップを認識し、コップまでの距離やコップに液体が入っているかどうかなどを検出しなければならない。さらに自由度の大きいロボットアームを動かして、コップを落としたりしないように持ちあげなければならない。

このような問題に注力するあまり、別の問題を見落としてしまう。例えば、ロボットが人間に水を飲ませるたいとしよう。ロボットが行わなければならないのは、コップを探し、それを持ち上げ、持ったままで水道まで行き、蛇口をひねって水を注ぎ、水がコップから出ないように注意を払いながら人間のそばに行き、水を入ったコップを渡すことである。この一連の行動をロボットが自分で計画し、実行するには、優れた知能が必要である。しかし、ここで使われた知能はコップを持ち上げるのに使われた、現実世界の複雑さが困難さの原因となっている課題とは質的に異なるのではないかと思う。両方が重要なのだが、現実世界でロボットを動かす場合、コップを持ち上げるだけで手一杯になり、もう一方の側面については注意がおろそかになる。

もちろん、だからといって現実世界の複雑さ、不確かさをまるっきり無視した、記号処理の世界を支持するわけではない。マイクロワールドは現実世界と記号処理の世界という両極端の中心に位置する。コップを動かすことには複雑なパターン認識や運動制御が必要だが、その複雑は現実世界に比べて大きく単純化されている。これにより、コップを動かすことと、より高次の行動計画の問題とを同時に取り扱うことが可能になる。

というわけで、マイクロワールドは重要だということを主張したい。特に、言語の意味論を考える場合、最も有望なアプローチだと思う。言葉の意味は世界に関して何かを表現している。それは心的世界でも良いし、外界でもよい。だから、言葉の意味を理解するためにはそれが表現する世界がどのようなものであるかを確かめなければならない。マイクロワールドはこの目的のためにうってつけである。言葉を理解するときには、言葉が表す世界を再現する。